表の森

腐らない大根と、不滅のトマト──冷蔵庫に住む「時間外れのものたち」

「あまさん。新玉ねぎの美味しい期限、過ぎちゃいますよ」

そう言われて、ふと見た冷蔵庫の奥──
そこに、いました。

……あの大根です。
8ヶ月近く、存在しているのに、
まったく腐る気配のない、あの子。

正直「買ったのはいつだったかな…」と、
タイムトリップした時間感覚に陥る始末。

しかも驚くのはその表情。
表面がうっすら白く光り、
未だ切ってもシャッキリと音を立てて、
「まだ、いけますけど?」という顔をしているのです。

これはもう、“野菜”というより“現象”に近い。
もしかしてこの子は、
「大根界の神主」とか、そういう存在なのかもしれません。


そして──忘れてはいけないのが、あのトマト。

ある時からお気に入りのガラスの子椀に入れているんだけど。

ラップもしていない。
しかも、底の方はもう液体化しているのに、
どう見ても“イキイキ”しているのです。
色もツヤも、香りさえ、あの爽やかな夏の香りが放たれている。

“いや、もうジュレですやん”と思っても、
どこか凛としていて、まるでこう言っているようです。

「これが私の完成形ですけど、何か?」

……はい。異議なしです。


なぜ、うちの冷蔵庫ではこういうことが起きるのか。
それはたぶん、“時間がまっすぐじゃない”から。

あれ?もしかして引いています?
冷蔵庫の不思議が、汚冷蔵庫話とおもわれている??

私の暮らしは、どうも「現実」というルールだけで動いていない。
チャネリングのときの意識。
人格たち(体に降りていた存在たち)がふと出てきたときの感覚。
動物たちとのやりとり。
そして、この冷蔵庫の奥の空間──

そこには、“時間のゆるみ”があるんです。


きっとこの大根も、トマトも、
ある意味「私たち人と同じ時間」を生きていないんだと思います。

たとえば、誰かを救うために生まれた“使い残された命”。
たとえば、まだ出番が来ていない“栄養の記憶”。
そんなエネルギーをまとって、
彼らは、そこに「在り続けている」

捨てるべき?
いや、わからない。
でも私は、今日も彼らに話しかけます。

「今日も、いるね」
「あなたの“役目”は、もう果たしたの?」
「それともまだ、何かを持ってるの?」

もしかすると、私たちもまた、
「まだ果たしていない何か」を抱えて、
この世界に、ただ“在り続けて”いるだけなのかもしれません。

腐らない大根と、永遠のトマト。
それは、暮らしの中に宿る“小さな神話”の断片なのかも。

だから私は今日も、
冷蔵庫を開けて、小さく手を合わせたくなるのです。

「まだここにいてくれて、ありがとう」って。

(そのあと、先日大根は味噌汁に、トマトは、庭の畑の一角で栄養として、お役目を果たされました🥰)
(副題:賞味期限の向こう側にある世界)

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